どんなに恵まれた体格や才能があっても、それだけで名指導者になれるわけではありません。むしろ相馬朋和監督は、現役時代を「決して目立つ選手ではなかった」と振り返ります。帝京大学ラグビー部監督就任1年目から日本一に導き、その後も日本一を重ねてきた──その指導観は、いったいどこで形づくられたのか。選手から指導者へと立場を変えるなかでの気づきを、本人の語りからたどっていきます。
帝京大学ラグビー部監督。1977年6月5日生まれ、神奈川県出身。高校でラグビーを始め、高校3年時に高校日本代表に選出。1996年、帝京大学へ進学。卒業後は三洋電機(後にパナソニック)に加入し、日本代表として24試合に出場、2007年ラグビーワールドカップ フランス大会にも出場した。引退後は同チームのスクラムコーチ、ヘッドコーチを歴任。2021年秋に帝京大学ラグビー部FWコーチに就任し、2022年春、監督に就任。就任1年目から全国大学選手権を制し、一昨年まで3連覇を達成。
一つに絞れなかった少年時代——水泳、柔道、サッカー、バスケ、そして退部
―相馬監督、本日はよろしくお願いします。私たちは、厳しい環境の中でも挑戦を続けるビジネスパーソンを「ビジネスアスリート」と定義し、その行動特性を研究しているのですが、監督がラグビーを始めたのは高校からだったそうですね。それまでは、どんな少年時代を過ごされていたんですか。
よろしくお願いします。全然かっこいい話じゃないですよ(笑)。小学校のときは水泳をやらされていたんです。泳げないと死ぬからって親に連れて行かれて、25メートル泳げるようになったら「もういいかな」と思って辞めました。それでソフトボールをやって、柔道場にも通いました。体が大きかったので大外刈りは得意だったんですが、受け身が痛くて(笑)。それが嫌で辞めてしまいました。次はサッカークラブに入ったんですが、リフティングが下手でこれも続かず、結局少年野球に落ち着きました。
―ずいぶん転々としていますね。中学に入ってからはどうだったんでしょうか。
中学は兄がバスケをやっていた影響でバスケ部に入りました。これが一番面白かったですね。東京都選抜のセレクションに呼ばれるくらいにはなっていたんですが、顧問の先生が異動になって、代わりに来た外部指導員と馬が合わなくて。ちょっとしたことで衝突があって、次の日からもう行かなくなってしまったんです。
―一つの競技にじっくり打ち込むというより、環境や相性次第で次々と場所を変えていた、と。ビジネスの世界だと「一つのことを我慢して続ける力」が評価されがちですが、監督の少年時代はむしろその逆を地で行っていますね。バスケを辞めた後は、どうなったんですか。
あまり大きな声で話せる内容ではないですね(笑)。お菓子とコーラにハマって体重があっという間に3桁になりました。そんな時に、担任の先生がサッカー部の顧問をしていて、「明日からサッカー部に来い」って誘ってくれたんです。それでゴールキーパーとして、泥だらけになりながら楽しくやっていました。
―そこからラグビーに出会うわけですね。
高校に入ってからラグビーを始めました。バスケでもサッカーでも、何もしてないのに反則をとられファイブファールで退場。イエローカード。
体が大きいことが不利になる世界にもやもやしていました。ところが、ラグビーは同じようなことが起きるとそれを褒めてもらえた。天職だと思いました。
体は大きいのに「できないことだらけ」だった、凡庸な選手時代
―高校からラグビーを始めて、高校3年で高校日本代表に選ばれ、その後は日本代表として24キャップ、ワールドカップにも出場されています。傍から見ればエリート街道のようにも見えるのですが、ご本人の実感としてはいかがでしたか。
いやいや、本当に大した選手ではなかったですよ。体は大きかったですけど、決して目立つ選手ではありませんでした。太っていて、できないことも多かった。どんなに頑張っても、できないことはある。でも、できることには誰にも負けないくらい一生懸命取り組んできたと思っています。
―できることに絞って、そこだけは一生懸命やる。これは今の指導でも大切にされている考え方だと伺っていますが、当時からすでにその原型があったということですね。
そうですね。今振り返ると、一生懸命に何かに取り組むことを、ただ楽しむことができていたんだと思います。そんな経験から、一生懸命頑張ること自体を楽しめる人に、みんなになってほしいなと思うんです。これが楽しいとか、これが得意だとか、そういう理由じゃなくてもいい。何に対してでも一生懸命頑張ること自体を楽しめれば、どんな世界でもやっていけると思うんですよね。それは、できないことだらけだった自分の実感から来ているんだと思います。
―チームの中では、どんな役割が多かったのでしょうか。
なんとなくリーダーみたいな仕事はずっとしていましたけど、キャプテンになることは少なかったです。高校ではキャプテンでしたが、大学ではキャプテンではありませんでした。社会人になってもずっとリーダーではありましたね。
―穏やかな方だったんですか。
いや、そう見えるかもしれないですけど、けっこう激しい性格だったと思います(笑)。あと、涙もろいところも昔からありましたね。感動すると自然に涙が出てくるタイプです。
選手引退からの2年間——何を学び、何が変わったか
―大学卒業後、三洋電機(後のパナソニック)に加入し、選手として日本代表にも選ばれます。引退後はスクラムコーチ、ヘッドコーチを歴任されていますが、順風満帆だったわけではないと伺いました。
そうですね。ロビー・ディーンズが監督に就任したタイミングで、僕は引退することになります。正直、彼のことを恨んでいましたし、チームを作る上で私の存在が邪魔なんだろうなと思っていました。あまりいい辞め方ができなかったです。その時に、帝京大学のコーチも兼任させてもらうことができました。スケジュールもかなりハードでしたし、辞めさせられたっていうネガティブな気持ちもあり、かなり自分勝手に動いていましたね。
―具体的には、どんな日々だったんですか。
他のスタッフに背を向けて仕事をしているような態度でした。流石に「あいつに注意しよう」という空気になったそうですが、ロビーさんがそれを止めていたそうです。「あいつに何か言っていいのは、あいつ自身だけだ。あいつは大丈夫だから、誰も何もいうなよ」って。
―厳しいようで、突き放しているだけではなかったんですね。
そうなんです。指示されていたのは、本を読むこと。あとは週に1回、コーヒーを飲みながら今何を考えているかを話すこと。それだけを半年くらい続けました。
―ビジネスの世界でも、権限を外されて「見守られる」時期を経験する人は少なくありません。その期間、監督ご自身はどう過ごされていたんですか。
苦しかったですよ。それまでラグビーしかしてこなかったので、ラグビーをプレーするのが人生の中心からなくなるというのは、本当にこたえました。ただ、自分に与えられた範囲の中ではコーチングを続けていましたし、腐ってはいなかったと思います。できることは一生懸命に楽しんでいたと思いますね。
―その状況が動いたきっかけは。
夏頃、当時チームの中心選手だった外国人選手2人が、監督に直談判しに来たんです。「相馬を復帰させろ、このままではチームは勝てない」と。それはすごく嬉しかったです。
そして、ロビーさんから、「現役復帰するかどうか自分で決めてくれ」と。
「ロビーさんが辞めさせておきながら、復帰するかどうかは私に決めさせるって!そりゃないだろう」と思いましたが。自分の意思で、選手にはもう戻らないと決めました。このときにやっと選手を辞めることができたのだと思います。そして、そのとき指導していた選手がレギュラーになり、日本代表になってくれました。
師弟関係の25年——継承のタイミングは、誰も口にしなかった
―その後、パナソニックでのキャリアに区切りをつけ、2021年秋に帝京大学ラグビー部のFWコーチとして着任、2022年春に監督に就任されています。岩出前監督からのバトンタッチは、どのように進んでいったのでしょうか。
卒業後も、母校には度々足を運んでいました。選手をしながら、後輩たちへ指導する機会をいただいていたんです。そんなこともあって、岩出先生とは、後任には誰が相応しいのかという話は何度かしたことがありました。その時は、帝京で優勝を経験したOBが戻ってくるのが最もいいのではないかとお話しさせていただいていました。
そこから時が流れ、岩出先生もそろそろ後任を探さなければならないご年齢になられて、ちょうど同じ頃、僕自身もヘッドコーチとして結果を出せずに苦しんでいた時期でした。私がヘッドコーチになってから優勝できないシーズンが続いて、優勝するまでは辞められないと思っていたんです。2020年度のシーズンで優勝できて、よしこれで辞めようと決断をしたんです。
―監督就任後の環境の変化については、いかがでしたか。
帝京に入職して1年経たずに、監督を任されることになりました。大学院に通いながら、右も左も分からない監督業。タフな時間を過ごしましたね。ただ、ありがたいことに就任一年目から日本一という素晴らしい結果を出させていただきました。
―少年時代の紆余曲折、選手としての「できないことだらけ」の実感、コーチとしての挫折。振り返ってみると、今の指導観のどこかに、必ずこの経験がつながっているように感じます。
そうですね。順調だった記憶より、うまくいかなかった記憶の方が、今の自分を作っていると思います。できない側の気持ちが分かるから、今も学生の「できるようになった瞬間」に価値を置けるんだと思いますね。
相馬監督への取材を通じて印象に残ったのは、「才能に恵まれた指導者」ではなく「できないことと向き合い続けてきた指導者」としての一面でした。少年期の紆余曲折、体は大きくても目立たなかった選手時代、そしてキャリアの中でコーチとしての挫折。どれも、一般的な「成功の物語」とは異なる時間でしょう。
しかし、まさにその回り道こそが、相馬監督の指導の解像度を上げているように見えます。ビジネスの現場でも、順調なキャリアを歩んできた人よりも、一度立場を外され、外側から組織を見た経験を持つ人の方が、部下やチームの「できない側の視点」に立てることは少なくありません。監督が今、学生の小さな成長の瞬間に価値を置けるのは、自身が「できない側」だった記憶を手放していないからではないでしょうか。
次回は、相馬監督の人物観の土台の上に築かれた「ダブルゴール」——日本一を目指すことと、学生の人間的成長を両立させる実践について、深掘りしていきます。
本メディアでは今後も、研究者・指導者へのインタビューやケーススタディを通じて考察し、個人・組織・社会における新たな価値創出のあり方として発信していきます。
