瞬時の判断が勝敗を分けるビジネスの最前線。そこで求められる「直感」は、単なるひらめきやセンスではありません。それは脳のメカニズムに裏打ちされた、極めて論理的な「熟練」の産物です。
今回は、将棋やチェスの研究から脳の学習プロセスを解明している、東海大学准教授の中谷裕教氏に取材しました。AIが正解を提示する時代、いかにして人間が独自の価値を築き、成長し続けるべきか。その科学的な道筋を伺いました。
東海大学 情報通信学部 准教授。研究テーマは、人間が熟練する際の脳内メカニズムの解明。脳波実験やfMRI実験を通して、熟練に関わる脳活動の特性を研究している。
熟練の脳内メカニズム:なぜプロは「考えず」に動けるのか
―中谷先生、本日はよろしくお願いします。私たちは、過酷な環境で迅速な意思決定を求められるビジネスパーソンを「ビジネスアスリート」と定義しているのですが、彼らにとって先生が研究されている「熟練のメカニズム」は、まさに喉から手が出るほど欲しい知見だと思います。先生は、人間が熟練していく過程で、脳がどのように変化していくのかを研究されているんですよね。
よろしくお願いします。ええ、その通りです。私が研究の興味として追い続けているのは、人間が熟練するといろいろな能力が上がりますが、それがどのような脳のメカニズムで起きているのか、という点です。例えば、プロフェッショナルな人たちが、なぜあんなに素早く、的確な判断を下せるのか。それを脳科学の視点から解き明かしたいと考えています。
―熟練すればするほど、判断スピードは劇的に上がります。これは脳の中で何が起きているのでしょうか?
一言で言うと、脳内での処理が「自動化」されているんです。初心者のうちは大脳を使って意識的に一つひとつ確認しながら処理しますが、熟練してくると、その処理を脳の別の領域が代行できるようになります。
専門的な言い方をすると、脳が処理を「効率化」し、意識しなくても体が勝手に動くような状態を作り上げているんです。このメカニズムを理解しているかどうかで、スキル習得のスピードには圧倒的な差が出ますよ。
ひらめきを支える「頭頂葉」と「大脳基底核」の正体
―ビジネスシーンでも「直感」は重要視されますが、それはセンスや才能だと片付けられがちです。先生はそれを脳の機能として構造化されていますよね。頭頂葉や大脳基底核といった部位は、プロの「0秒の判断」にどう関わっているのでしょうか。チェスや将棋の研究から見えてきた事実を教えてください。
実は直感には大きく分けて2つの種類があることがわかっています。一つは「パッと見て状況を理解する直感」、もう一つは「次にどうすべきかのアクションを決める直感」です。
図1:脳の解剖図
頭頂葉の楔前部と大脳基底核の尾状核の位置関係。
将棋の研究では、局面を理解するのは頭頂葉の「楔前部(けつぜんぶ)」、そして差し手を決めるのは大脳基底核の「尾状核(びじょうかく)」という部位が関わっていることが示されています。これ、面白い実験結果があるんですよ。1946年のチェスの研究では、世界レベルのグランドマスターと上級者を比較したところ、実は「読みの深さ(何手先まで読んでいるか)」にはほとんど差がなかったんです。
―そうなんですか!? プロの方が圧倒的に先を読んでいるイメージがありました。
意外ですよね(笑)。人間が一度に検討できる候補手は、プロでも高々3つ程度なんです。ところが、プロは「直感の精度」が桁違いに高いんですよね。パッと思いついた3つの候補の中に、最初から「最善手」が含まれているんです。
―なるほど。最初から正解に近い選択肢を選べるから、余計な計算をしなくて済むわけですね。
まさにその通りです。実際にプロ棋士に1秒だけ局面を見せて問題を解いてもらう実験をしても、思考時間0秒の状態で正答率が8割に達します。谷川浩司先生もとある著書の中で、「読む(考える)よりも、読まない(考えずにパッとわかる)ことの方が大事だ」とおっしゃっていますが、これは脳の大脳基底核が、局面を見た瞬間に最適な一手を「自動選択」している状態だと言えますね。
技術習得の本質とは?小脳に働きかける「誤差信号」と「個人練習」の相関
―思考の自動化を実現するにはどうすればよいのでしょうか。理化学研究所の故・伊藤正男先生の仮説では「小脳」が鍵となるとのことですが、そのプロセスを加速させるにはどうすればよいのでしょう。さらに、先生が提唱される「誤差信号」の重要性と、なぜ実戦以上に「個人練習」が重要なのか、そのメカニズムを教えてください。
故・伊藤正男先生の仮説では、大脳と小脳の連携を考えることが重要とされています。小脳はもともと運動制御を司る場所ですが、実は「思考」の熟練度にも深く関わっているという有力な仮説があります。
最初は、大脳を使って意識的に論理や戦略を組み立てます。これを「メンタルモデル」と呼びます。練習を繰り返すと、小脳がその処理プロセスをコピーして、自分の中に「内部モデル」を作り上げるんです。
―コピーが完了すると、無意識で動けるようになるわけですね。
ええ。ただし、このコピーを成功させるためには、脳が「誤差信号」を強く受け取ることが不可欠です。人間は、失敗した時に「目標と現実がズレた」と認識することでしか学習できません。ボールが的に当たらなかった時、「右にズレた」と脳が明確に感知するからこそ、小脳のモデルが修正されます。これ、仕事でも全く同じなんですよ!
―ミスを曖昧にせず、しっかり認識しないと小脳は学んでくれないということですね。
そうなんです。目的意識を持たずに漫然と繰り返すだけでは、脳に誤差信号が伝わらず、学習が進みません。そこで有効なのが「Deliberate Practice(デリバレート・プラクティス)」(*1)です。自分の欠点を克服するために負荷をかけ、思考錯誤しながら行う練習のことですね。実はチェスや音楽の研究でも、大会に出る時間より、一人で黙々と分析する「個人練習」の時間の方が、パフォーマンスの向上と強く相関しているんです。
*1 「Deliberate Practice(デリバレート・プラクティス)」
「Deliberate Practice(デリバレート・プラクティス)」とは、単なる「なんとなくの練習」ではなく、能力向上を目的として「明確な目標設定、高い集中力、継続的なフィードバック」を伴う、意識的かつ計画的な練習方法(意図的練習)を指します。
図1:練習時間とスキルの相関(Charness et al., 2005)
出典:Charness, N. et al. (2005) のデータを基に、AIツールを使用して作成。
―実戦よりも個人練習の方が重要だとは意外です。
実戦は自分の欠点を見つける場としては有効ですが、その欠点を克服し、技術をチューニングできるのは個人練習の時間だけだからです。相手がいると勝ち負けに意識が向き、自身の微調整に集中できません。一人で納得いくまで思考し、誤差を埋めていく「自主練習」の時間こそが、小脳の内部モデルを磨き上げる最短ルートなんです。
【AI時代の生存戦略】「出力」をAIに譲り、「目標設定」を奪還せよ
―AIが正解を瞬時に出す時代、私たちの学習の価値はどこへ向かうのでしょうか。これまでのような成果物(出力)を競う成果主義が限界を迎える中で、人間がAIと分業すべき役割、そして今後重視されるべき「評価の指標」について伺いたいです。
私は、AIと人間では「学習の役割」が明確に分かれていくと考えています。AIは与えられた目標に対して正しい「出力(アウトプット)」を出すのが得意ですが、人間は「何をすべきか」という「目標そのもの」を自分で決めることができます。これは、ビジネスにおける決定的な生存戦略になると思いますよ。
―出力はAI、目標は人間。明確な分業ですね。
ええ。これまでのビジネスは、質の高いアウトプットを出す「成果主義(出力重視)」が主流でした。しかし、出力そのものの価値はAIによって今後コモディティ化し、差がつかなくなります。
そうなると、評価の対象は「何を目標に掲げ、どのようなプロセスで取り組んだか」という、人間ならではの意志や、目標へのアプローチの質にシフトしていくでしょう。
―評価の軸が「結果」から「目標とプロセス」に転換していくわけですね。
そうです。だから、AIを安易に「回答をくれるマシン」として使うのではなく、まずは自分で考え抜き、その後に自分の考えが正しいかを確認する「答え合わせ」のツールとして活用すべきです。
AIに頼り切るのではなく、AIを自分の思考の「誤差」に気づくための便利な道具として使いこなす姿勢。これこそが、AI時代に生き残るための知能のあり方です。
終わりのない「道」。目標を持ち続けることが最強の若さである
―最後に、キャリアの転換期にいたり、新しい分野へ挑戦しようとしているビジネスアスリートの方々へメッセージをお願いします。
私が好きなサミュエル・ウルマンの『青春』という詩には、「理想や目標を失ったときに人は老いる」という内容があります。脳科学的な観点から見ても、新たな目標設定ができなくなることこそが、最大の退化だと感じます。例えばオリンピック選手が金メダルを取った後に燃え尽きてしまうのは、次の目標が見失われるからです。
―常に「新しい目標」を持つことが、脳を活性化させ続けるのですね。
その通りです!新しいことに挑戦する際の「一歩目の重さ」は、脳が新しいモデルを構築しようとしている証拠でもあります。スポーツや過去のキャリアで培った情熱を、次の新しい目標に振り向ける。その「喜び」を感じてほしいですね。
―直感やプロフェッショナリズムは、地道な「誤差」の積み重ねの先にしかない。勇気づけられるお話でした。
ええ。直感力を鍛える唯一の近道は、地道な学習とチューニングの積み重ねです。脳のメカニズムを正しく理解し、AIを味方につけながら、ぜひ自分だけの新しい「道」を切り拓いていってください。
―中谷先生、本日は貴重なお話をありがとうございました!
ありがとうございました。応援しています!
